| 七転び八起き日記
25年度予算議会が終了
今年から4回期制が2回期制にかわり、今も議会中には変わりありませんが、とりあえず議会が一区切りつきました。25年度予算の中で、特に気になっていたのは、新しい支援学校(旧養護学校)の件です。現在の垂水養護学校(肢体不自由)と青陽西養護学校を統合し、西区の井吹台西町に新築移転する計画で、現在は移転先の地域と協議中となっています。いろんな意見があるようですし、私も幼い子供を育てている立場として、あるいは西区のニュータウンに住む者として、どれもお気持ちはよくわかるものです。ただ、もしよければ、以下の議事録を読んでみていただけないでしょうか。今回の件とは直接関係のないものですが、少しでも障がいのあるお子さん、障がいのある人のことを身近に感じていただけたらうれしいです。
【養護学校(特別支援学校)とは?】(H21年度予算特別委員会の議事録より)
(前略)
私は、友生と同じ、肢体不自由の養護学校の出身者です。
田舎の山の中にある、雨漏りの絶えない養護学校でした。
決していい環境であったとは言えませんでした。
しかし、私は、すばらしい先生との出会いに恵まれ、
大学に進学することができました。
「在校生が進路の相談にのってほしいと言っているから、学校に来てくれないか」
確か、2年ほど前だったと思います。
恩師からそう連絡があり、私は意気込んで、
母校である養護学校に行きました。
学校に入ると、その子はいませんでした。
数日前に病気が急変し、亡くなっていたのです。
養護学校は、そういうところなのです。
明日が来るか来ないかわからない子供たちが、自分のほんの少しの可能性のために、
そしてその可能性を広げるために、日々努力をし、一生懸命生きている。
そこが養護学校なのです。
(中略)
私は、友生養護学校へ見学に行ったときのことを思い出しました。
まず学校に着き、驚いたのは、立地です。
こんな街中に養護学校があるなんて、すごい!
住宅街の中にあるだけでなく、駅も近いし、隣に小学校がある。
私が通っていた田舎の学校とは、比べ物にならないなぁと感じました。
その一方、学校の中に入り、実際に子供たちと接してみると、
私が通っていた時代とは、状況がまるで違っていることに驚きました。
車椅子の後ろに、酸素ボンベを背負っている子、点滴棒のようなものを車椅子に取り付け、
そこからチューブを通して、体の中に直接栄養を流し込んでいる子、など
いわゆる、医療的なケアを必要とする子が、そこにはたくさんいました。
聞けば、今年に入ってからすでに、ここに通っている数人の子が、
病気により亡くなっているとのことでした。
(後略)
【障害福祉とは?】(25年度予算に関する本会議での代表質疑の議事録より)
(前略)
私たちは、聴覚障害の方の支援を模索する中で、
ある男性が支援を受けられずに苦しんだ手記を目にする機会がありました。
灘区に生まれたその男性は、垂水の聾学校(現在の県立神戸聴覚特別支援学校)を出て、
いろんな仕事を転々とした挙句、ささいなトラブルをきっかけに、
20代で精神病院に措置入院、70歳になるまでの約50年間、社会と隔離された状態で生きてこられました。
再び同じ聴覚障害者と再会し、支援を受け、
仲間の待つ特別養護老人ホームに移られたのは、つい数年前のことです。
手記の中で、家族に会えず、両親の死に目にも会えなかったこと、
家に帰れないことの苦しみもつづっていらっしゃいました。
その他にも、様々な立場の方のお話をお聞きしましたが、
聴覚障害だけでなく、コミュニケーションを苦手とする方には、
どうしても支援の手が行き届きにくいという現状を目の当たりにしました。
ほんの少し、どこかで誰かが支援の手を差し伸べてさえいれば、
悩み、苦しんでいた時間を過ごさなくてもよかったかもしれません。
これは何も過去の話ではなく、現在でも起こり得ることであり、誰もが隣り合わせで生きている
ということも、決して忘れてはならないと思います。
(後略)